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蜂アカデミーへの報告

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わたしは昨年、スズメ蜂に刺され、九死に一生を得た。

信濃追分の山小屋で〈わたし〉は、スズメ蜂に刺され九死に一生を得た。その顛末と考察を、井伏鱒二の『スガレ追ひ』、ファーブルの『昆虫記』、永井荷風の『断腸亭日乗』、新聞記事の引用、蜂被害者に関する証言などをもとに、「蜂アカデミー」に宛てた報告書としてまとめる――。カフカの『アカデミーへの或る報告書』やメルヴィルの『白鯨』といった作品をパスティーシュした中編小説。雑誌「新潮」1985年10月号に発表、翌年、単行本として刊行。

初出:「新潮」一九八五(昭和六〇)年一〇月号

底本:単行本・新潮社・一九八六(昭和六一)年四月二〇日刊

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報告は必要だったか?(2014年01月02日)

「蜂アカデミーへの報告」は、既刊「吉野大夫」と同じく軽井沢町追分が舞台となっています。私たちが主に夏の間過ごす山小屋に巣を作ろうとするスズメ蜂と父・後藤明生の「仁義なき縄張り争いの記録」です。ほぼ実話に基づいており、実際父はスズメ蜂に刺され意識もうろうとなり、救急車のお世話になりました。第一章の書き出しは「わたしは昨年、スズメ蜂に刺され、九死に一生を得た」とあります。しかし、読者の誰も、この件について心配する気になれない、というのは、何故なのでしょう?

 私が子供の頃、父についてどうしても受け入れられない一面がありました。それは動物に対して無慈悲な、というより残酷なところでした。一番最初の記憶は私が幼稚園児くらい、当時住んでいた団地の敷地内で黒い小さなねずみを見つけ、なぜかとても人なつこかったため、なでたり抱いたりしてかわいがっていました。それを偶然とおりがかった父に見つかり、あろうことか父はゴミ捨て場にあった粉ミルクの空き缶にねずみをいれてふたをし、私の目の前で焼却炉に投げ込んだのです。もう40年以上前の出来事なのに、今でもミルクの赤い缶の色と共に脳裏に鮮明にこびりついています。

 追分でも蛇を見つけると杖や木の枝で攻撃し、足で踏んづけて息の根を止めるまで容赦しない。毒を持っているかどうかなんて関係ありません。死骸を見る目の勝ち誇った輝きが、子供心に本当に恐怖でした。

「蜂アカデミーへの報告」に描かれている顛末も、もともとシロウトはやらなくてよい蜂退治をした結果ひどい目にあったわけで、それを「蜂アカデミー」などといううさんくさい団体(?)に向けて報告してやろう、という根性と図々しさにやや呆れます。もし、蜂退治の現場に私がいたなら、多分数日は父と口をきく気になれなかったと思います。「蜂は刺す、刺されると死に至る危険がある、だから殺すべきだ、いや殺しても良い、」という考え方が気に入りません。

 しかし、作品としては、相変わらずの無邪気なまでの無責任さでどうでもいいこと、例えばハエ叩きの改造とか、虫取り網の洗濯とか、に執着するかと思えば、蜂の被害にあった方のご遺族に会いに突如大分まで足を運ぶという行動力、ご遺族のお話の聞き取れない部分を、聞き返しも裏とりもせず「……」ですませるという暴挙、などつっこみどころ満載で、「報告」は不完全だが面白いといわざるを得ない、と感じています。

 ちなみに後年父は、大病をしたせいもあるのか、改心?したようです。スポーツのように虫をハエ叩きで打ち落とすこともしなくなり、蛇にも寛大になりました。ほほえましいエピソードがあります。ある時期父が好んでいた散歩コースの近所にテニスコートがあり、打ち損ねたボールがフェンスを越え、道路脇に転がっているのを集めるのが、父の楽しみの一つでした(集めたボールを戻さず、持って帰ってしまうのが父なのですが)。大体一日に2、3個拾うのですが、その日も拾ったボールを手に歩いていると、リードをぶら下げたまま飼い主から離れて歩いている犬がいました。こちらに興味がありそうに見ている犬に父は「あの犬にボールやろうかなあ」とつぶやいたのです。これもまた、この先ずっと私の脳裏に鮮明にこびりつき続ける記憶、というより思い出、といえるものでしょう。

松崎元子

<試し読み>----------------------------------

蜂アカデミーへの報告

目次

1  この報告はどのようにして出来たか 5

2  いつ蜂が現われたか 7

3  ハエ叩き 10

4  アブラウンケンソワカ 17

5  ホース攻撃 33

6  夜なべ 42

7  ファーブル――「仮死」という凌辱 47

8  こうして一つの蜂の巣を全滅させた 56

9  救急車 61

10 戯歌三つ 66

11 蒐集 68

12 文献学 74

13 取材 82

14 as busy as a bee 87

15 謎――日記失格者の弁明 91

1 この報告はどのようにして出来たか

 わたしは昨年、スズメ蜂に刺され、九死に一生を得た。わたしが蜂について考えはじめたのは、そのためである。また、この報告が出来あがったのもそのためである。つまりこの報告は、わたしが蜂について考えはじめた動機であり、同時にその結果である。そしてまた、それはどのようにしておこなわれたかという方法でもある。

 事件は昨年九月十一日に発生した。そして、それからちょうど一年が経過した。しかしわたしはこのまるまる一年間、蜂研究に専念没頭したわけではない。また、この報告に専念没頭したわけではない。もちろん、出来ることならば、そうしたかったのである。ところが不幸にして、わが東洋の島国においては、目下のところ一介の売文家にそれだけの余裕は与えられておらない。一部には、売文家なるものについて、この実情とはほとんど正反対の認識(つまり誤解)が存在するらしい。しかし、尊敬する貴アカデミー会員各位、わたしの言を信ぜられよ。

 そしてそのような実情のために、わたしの蜂研究はしばしば中断した。また、この報告をもしばしば中断せざるを得なかった。わたしは売文の合間をみて、それらをおこなわざるを得なかったからである。その数度にわたる中断は、当然の結果としてこの報告の形式内容に反映しているはずである。そのことをまずお断りして置きたい。

 と同時に、この報告における形式内容は、それらの中断だけによるものとはいえない。貴アカデミーはもちろん、わたしはいかなるアカデミーにも所属しておらない。過去現在においてそうであり、未来においてもおそらくそうであろう。つまり、いかなるアカデミー、あるいは大学の紀要なるものにも論文研究類の発表した経験を持たない。したがってその種の論文研究の形式の規範を知らない。また文体の規範を知らない。例えば新聞記事における「四つのW」のごとき規範である。そのことを併せてお断りして置きたい。

 もっとも次の如き実例もないわけではない。

《これは私の経験ですが、大蔵省に勤務していたころに、大臣の演説の草稿を書かされてたいへん難儀をしたことがあります。私はごく文学的な講演の原稿を書いたのでありますが、それははなはだしく大臣の威信を傷つけるものでありました。課長は私の文章を下手だと言い、私の上役の事務官が根本的にそれを改訂しました。その結果できた文章は、私が感心するほど名文でありました。それには口語文でありながら、なおかつ紋切型の表現の成果が輝いておりました。そこではすべてが、感情や個性的なものから離れ、心の琴線に触れるような言葉は注意深く削除され、一定の地位にある人間が不特定多数の人々に話す独特の文体で綴られていたのであります》

 これは三島由紀夫『文章読本』の一節である。この作家についての説明は不要であろう。彼は日本国外で最も有名な日本作家の一人である。現在最も有名であるのは誰か。それはともかく、かつて、ミシマはノーベル文学賞の最有力候補だ、という噂が流れた。また、真偽の程は確かでないが、ミシマはアカだ、という噂も流れたらしい。彼がノーベル文学賞を受賞しなかったのは、そのためだったかどうかわからない。しかしその数年後、彼は日の丸ハチマキとハラキリによって、ノーベル文学賞受賞以上に世界のジャーナリズムを震憾させた。

『文章読本』において三島由紀夫は、大蔵省勤務時代(彼は東大法学部卒)の体験を通して、文学的文体と実用的文体の価値は相対的なものであることを説いている。つまり、未来のノーベル文学賞候補作家の文学的文体も、大蔵省文体の規範に照らせば、「猫に小判」以下であったという逆説的大蔵省文体批判である。

 とすれば、わたしなどが貴アカデミーの文体その他の規範に対して、あれこれ弁明などする必要はないのかも知れない。あるいはもし仮にあったとしても、この報告における形式内容はすでにのべた通りである。すなわちそれは、わたしがこの一年間、売文業の合間に書きつけたノートであり、メモであり、記憶の断片であり、モノローグであり、対話であり、そしてスクラップその他である。

2 いつ蜂が現われたか

 これは正確なところ不明である。実は、わたしは日記をつけていない。たまたま昨年つけなかったのではなくて、もうずっとつけていない。つまり日記をつける習慣がない。したがって昨年夏、浅間山麓(信濃追分)の山小屋で最初にスズメ蜂を目撃したのは何月何日であるか、正確な記録はない。

 尚、申し遅れたが、わたしはここ十数年、夏の期間をその山小屋で過している。ふつう七月中旬か下旬あたりから、九月上旬あるいは中旬あたりまでである。建物は洋風ではなく、純日本式木造、瓦葺きの平屋で、台所、風呂場、トイレットの部分はトタン葺き。浅間山を背にしてカギの手に建てられており、南側が庭になっている。庭先に数年前、プレハブの別棟を置いた。

 ゆるい坂になった草道を五、六分登ったところを、いわゆる千メートル林道が東西に走っている。したがってわが山小屋は標高約九百五十〜七十メートルというところであろう。草道の十字路に面しており、北側はA家一族の墓所で欅(けやき)の大木がある。二本あったが、一本は十年ばかり前に伐られた。A家一族は江戸期に越後方面から来たといわれており、墓所はその時代からのものである。また北側には五、六年前、新しい山荘が出来た。それと隣合わせに某民宿経営のテニスコートが出現した。いずれもニセアカシア、赤松、唐松の林だった場所である。

 西側は広大な敷地を持つ某フルーツ会社の社員寮である。本社は東京だそうだ。四年前の台風で、おびただしい数の白樺が倒れた。北西の方向にななめに、まるで草のように倒れていた。社員たちはそのあと始末の作業に動員されたようである。社名入りのトラックがさかんに出入りしていた。作業の結果、立ち直った白樺もあるようだが、ほとんど半減したようである。再生不能の白樺はチエンソーで分切されトラックに積まれた。四年前の台風でわたしは、けたたましい音をたてる電動ノコギリがチエンソーというものであることを、はじめて知った。再生不能の白樺の株も掘り出され、トラックに積み上げられ、運び去られた。

 南側は庭で、はずれの突き当りに一本の欅がある。A家一族の墓所の欅よりはだいぶ小さい。まわりは小高くもりあがっており、草むらになっている。昔、金毘羅サマを祠っていたらしいが、いまは石垣らしい跡があるだけである。その裏側は小さな崖のようになっており、道の形はないが法律上は幅一尺ばかりの町道が通っている。それを下ってゆくと、いわゆる旧道に出る。旧中仙道宿場町の通りで、突き当りに八百屋がある。

 東側は三百坪ほどの宅地で、十数年前はほとんど一面のススキ原であった。ところが数年前からニセアカシアが繁殖しはじめ、最近ではいつの間にか松その他も生えて来たようだ。宅地の向う側は畑で、ゆるい草道を下ってゆくと一軒農家がある。その向う側が泉洞寺である。

 以上、わが山小屋周辺の、ごく大ざっぱな地形であるが、わたしはもともと地形というものが大のニガテである。ただ、スズメ蜂およびスズメ蜂の巣と何らかの関係があるのではないかと考え、最少限の説明をしてみた。したがって、不明な点は泉洞寺の住職におたずね願いたい。そうすれば必要かつ充分なる説明が得られるはずである。

 さて、日記をつけていないわたしは、カレンダー式の予定表というのを使用している。中型のノートブックを見開きにしたくらいのもので、左半分がその月の一日〜十五日。右半分が十六日〜三十(三十一)日。横罫のメモ欄がついており、そこに一日分の必要事項を書き込む。原稿、会合、来客、外出その他、仕事と私用をこみにして、わたしの場合この予定表一つで間に合っている。

 それに表裏の両面を使えるようになっているから、一年が六枚で済む。一月から六月までが表、今度は一月の裏が七月となり以下十二月までが裏面となる。実に便利なものだが、もちろんわたしの発明品ではない。毎年暮れに某通信社から「粗品」として進呈されるもので、もう十年以上になると思う。「粗品」どころかまことに重宝なもので、たぶん愛用している同業者も多いのではないかと思うが、わたしは一年間使用済みのこの予定表を、ずっと保存している。そしてこれが、日記をつけていないわたしの、唯一の記録である。

 〈予定表〉一九八四年七月

 26日(木)先負 追分行き。夜中、吉雄(註1)の車で出発

 27日(金)仏滅 追分着。午前二時三十分頃着く

 28日(土)先勝 スズメ蜂か?(註2)

(註1)長男の名前である。昨年夏現在で大学四年。今春卒業して就職。一昨年運転免許を取り、中古車を購入。少々ムリをしたが、それまで衣類、本類などを鉄道便で送ることが追分往復時の頭痛のタネであった。それは長男運転の車による往復で、一応解決。なにしろ、それを条件に車を買ったのである。しかし昨年の追分行きは例年にくらべて、十日近く遅い。あるいは長男の都合でそうなったのだったかも知れない。

(註2)この記録では、追分着の翌日スズメ蜂を見たことになる。前日は未明に到着、ずっと眠っていたのかも知れない。それにしても、いきなり「スズメ蜂か?」が出て来たのには、われながら、ちょっとおどろいた。しかし、これは次の3とのかかわりにおいて考えてゆくと、なるほど納得がゆく。

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