しんとく問答
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ダートーベーイエイ、ダートーベーイエイ
ある時はマーラーの交響曲を聴くために、またある時は宇野浩二の文学碑を訪ね、さらには大阪城公園を散策し、そこで知った「四天王寺ワッソ」の見物に出かけ……。単身赴任の初老の男が、地図を片手に大阪の街を歩き回り、遂には俊徳丸の墓と思われる古墳へとたどり着く。「マーラーの夜」「十七枚の写真」「大阪城ワッソ」「俊徳道」ほか全8作から成る、日記文、書簡文、講演録など、さまざまな形式で記された連作小説。1995年、発表。
◉目次
「マーラーの夜」…………………初出「新潮」一九九二年一月号
「『芋粥』問答」…………………初出「新潮」一九九一年一月号
「十七枚の写真」…………………初出「群像」一九九二年五月号
「大阪城ワッソ」…………………初出「新潮」一九九三年一月号
「四天王寺ワッソ」……………初出「新潮」一九九四年三月号
「俊徳道」……………………………初出「群像」一九九四年一〇月号
「贋俊徳道名所図会」………初出「新潮」一九九五年一月号
「しんとく問答」………………初出「群像」一九九五年三月号
底本=単行本:一九九五年一〇月一六日 講談社刊
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新たな冒険の舞台・大阪(2013年12月17日)
「しんとく問答」は、大阪に移り住んだ父の「今日のランチ。大阪版ご近所アドベンチャー。時空スクランブルつき」ともいえそうな(?)小説です。
近畿大学で教えることになった父は単身千葉から大阪へ引越し、数十年ぶりの1人暮らしを始めました。冒頭の「エビフライライス」や後の「幕の内弁当」など、食に執着する様がことこまかに描かれてるのに笑ってしまいます。母という専属コックがいなくなり、食事をするために「着替えなければならない。ヒゲをそらなければならない」という状況の変化への意気込み、みたいなものが文章からにじみでているようで、「それほどのもんかい」とつっこみたくなるのも確かです。
しかし一方で、父が積極的に大阪の街を味わいつくそうとする姿はまぶしく、地図を頼りに、または気の向くままにてくてくと歩き回り、挙句の果ては「今はない道」「それどころか、あるかどうか確かではない道」を探そうとまでする展開は、まさに1人暮らしの賜物、とも言えると思います。家と勤務先である学校との往復、もしくは果て無き飲み屋のはしご、にもなりかねなかった単身移住ですが、生まれて初めて住んだ大阪の街の魅力が、父にベルギーの人気コミックの少年「タンタン」並みの冒険心を授けてくれたのかなと思います。
ところで、「しんとく問答」で重要な役割を果たしているのが作者が撮影したとされている「写真」でしょう。「十七枚の写真」という章では延々と、自分がとった写真がどんなものであるのかを文章のみで語っていきます。こんなのあり?と呆れながらも、その中の1枚の写真の描写に私は心惹かれました。本文を抜粋してみます。
《写真17》の男です。とび出した男は、暫くテントの方を見ていましたが、とつぜん走り出しました。しかし、十メートル程で立ち止ると、さっと左手を前方に突き出しました。そして、上体に捻りを入れると、前方水平に伸ばしてひらいた左の掌めがけて、思い切り右足を蹴り上げました。それから男は、膝を高く持ち上げ、両肘を激しく振りながら五、六歩前進し、立ち止ったかと思うと、今度は前回と反対に、前方水平に伸ばした右の掌めがけて、左足を蹴り上げました。
「謎の男」の動きが鮮明に浮かび上がってきませんか? また、脈絡のない事態に思わずどうでも良い写真を撮ってしまった作者、という空気が伝わってきませんか?
もしこれが実物の写真だけであったなら、男の行動のとっぴさ、動きのダイナミックさを読者は受け取れなかったのではないでしょうか。またたとえ、写真と共にキャプションがつけられたとしても、写真が伝える一瞬のイメージにとらわれて、そこから先の写っていないものへの想像力が働くことはなかったような気がします。
くやしいです。父にまんまとやられました。
松崎元子
<試し読み>-------------------------------
『しんとく問答』
マーラーの夜
十月のある日、午後四時頃だった。マンションのリビングルームでテレビを見ていると、KBS交響楽団によるマーラー演奏会の案内になった。私はロッキングチェアから大急ぎで立ち上り、電話の脇のメモ用紙にとびついた。そしてコンサートの日時、問い合せ先の電話番号をボールペンで素早く書き取った。
二年前、大阪に単身赴任してから、私はテレビの催物案内をときどき書き取るようになった。といっても特別に変ったものではない。あるときは京都の貴船神社の「貴船祭」だったり、またあるときは大阪天満宮の「秋思祭」だったり、またあるときは奈良の「だんじりまつり」だったりした。つい最近では大阪市内某デパートにおける「太平記展」だった。しかし、まだ一度も出かけたことはなかった。
私は二年前、大阪の某私立大学に新設された文芸学部で、明治大正文学の講義を受け持つことになった。新設学部であるから、いまのところ学生は一年生、二年生だけである。大学へは月、水、金の三日出かけ、月に二、三度、東京の自宅へ帰った。自宅には妻と大学四年生の長女が残っていた。連休のときなどは妻と長女が大阪へ出かけて来ることもあった。
私は、いわゆるクラシック音楽愛好家ではない。マーラー狂というのでもなかった。演奏会にもほとんど出かけないし、レコードやCDも集めていない。マーラーで持っているのは交響曲第一番「巨人」のLP盤だけで、それも東京の自宅に置きっ放しである。バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルハーモニー管絃楽団の盤だったと思うが、確実ではない。つまり、その程度の記憶しかない。しかし、ときどき、とつぜん聴きたくなって、大阪のマンションではカセットテープで聴いている。サー・ゲオルグ・ショルティ指揮、ロンドン交響楽団のマーラー交響曲第一番「巨人」(ロンドン・カセット・ベスト一〇〇/41/ポリドール株式会社)であるが、私にはこれで充分だった。
私はこのテープをラジカセ・デッキにほとんど入れっ放しにしていた。そして聴きたくなるとスイッチを押す。全曲を聴くこともあったが、第三楽章だけのこともあった。いや、五回のうち四回は第三楽章だけだった。したがってテープは、スイッチを押せばすぐに第三楽章が聴けるように、裏返しの状態にされていた。聴き終るとすぐに巻き戻しておいた。「巨人」のテープは「収録時間57分26秒」、第三楽章は約十一分だった。
クルシェネク/レートリヒの『グスタフ・マーラー/生涯と作品』(和田旦訳/みすず書房)では、第三楽章の葬送行進曲について次のように書かれていた。
注目すべき『第一交響曲』は一八八四年から一八八八年のあいだに途切れがちながら作曲され、(……)これはのちになって、《巨人》というまぎらわしい表題に取り替えられたが、この表題をみると、ほとんど誰もがオリンポスの神々への反逆者を連想し、ジャン・パウルのなかば忘れ去られた感傷的な小説を連想する者は一人としていなかった。この副題は結局は捨て去られ、アンダンテの中間楽章は、いまでは有名な第三楽章の葬送行進曲に置き換えられたのであり、これはマーラー自身が素朴なロマン派の絵画、「狩人の葬式」から連想したものだった。
その「素朴なロマン派の絵画、『狩人の葬式』は、『グスタフ・マーラー/生涯と作品』の口絵になっており、「M・シュヴィント 狩人の葬式(銅版画)『第一交響曲』の葬送行進曲に霊感を与えた」と説明されている。白黒、横長の写真版で、余りはっきりしないが、先頭は兎と狐のグループで、そのうちの一匹の兎が旗を持ち、もう一匹の兎は右手に楽譜らしきものを持ち、左手に指揮棒らしきものを振りながら何か歌っているようである。もちろん彼らは人間同様に二本の脚で歩行している。第二グループは僧侶たちらしい。僧衣を着けているのは猪、熊、ともう一人(?)はイタチだろうか? そのうしろに棺が続く。棺は昔の籠の形をしており、担ぎ手は鹿で、前に二人、うしろに二人。そして鹿たちに担がれた棺のまわりに長いタイマツを持った兎が三人。大阪で愛用しているポリドール版カセットテープ付録の岡俊雄氏の解説では、この棺のうしろにボヘミア人の楽師の群が続くことになっていたが、こちらにはボヘミア人の姿は一人も見えない。棺のすぐうしろは狐で、大袈裟にタオルで涙を拭っている。そのうしろに大きな角を持った牡鹿と、角のない牝鹿が並んで腕を組み、空いた方の手に何か袋のようなものをぶらさげている。そのうしろに曲った角を生やした山羊の姿が見え、これまた大袈裟にタオルで涙を拭きながらイタチと大兎が続いている。そして彼ら地上を二本脚で歩行する葬列の頭上に、フクロウ、オウム(?)それから何だかよくわからない中形の鳥が二羽と小形の鳥三羽が低空飛行で参加している。鳥の中での異色は、両羽をひろげて飛び上っている、足に水掻きを持ったアヒルだろう。
ざっと右のような動物たちの葬列が、西洋の童話やお伽噺でおなじみの樹の精や樹のお化けたちが立ち並ぶ森の中を通って行くのである。
私とマーラーとの出遇いはいつだったろうか。特に記憶に残る場面という程のものはない。つまり、いわゆる劇的な出遇いではなかった。それに私は、いわゆるクラシック音楽ファンでもないし、マーラー狂でもない。したがって私とマーラーとの出遇いは、少なくとも、日本じゅうがマーラー・ブームの状態にあった時期以前ではなかった。あるいは、日本じゅうのマーラー・ブームがそろそろ終り、「え? まだマーラー聴いてるの?」という時期に入ってからだったかも知れない。私がたった一枚だけ持っている「交響曲第一番」のLP盤も、たぶんその頃買ったのである。
そして私は、たちまちにして「交響曲第一番」の謎に巻き込まれた。中でも第三楽章は、まことに不思議な体験であった。実際それは、ショックというより、どうしても思い出せない記憶のような、一つの謎である。その謎はいまだに謎のままであるが、私が「第一番」のLPを買ったのは、実はその謎のためだったのである。
マーラーとの出遇いは、確かに劇的なものではなかった。ただ、第三楽章を聴きながら「おや?」と思った。マーラーを聴くのは正真正銘、生れてはじめてであったにもかかわらず、私はそれをどこかで聴いたような気がした。マーラーが例の「狩人の葬式」というロマン派の絵から霊感を授かったという葬送行進曲であるが、私はそんなことはまるで知らなかった。なにしろ生れてはじめてのマーラーである。それがボヘミア民謡の変奏であることも知らなかった。マーラーについて知っていたのは、彼がユダヤ人だということくらいだった。私が最初に彼の名前を知ったのは、偶然にも彼と同じ名前を持ったグスタフ・ヤノーホの『カフカとの対話』(吉田仙太郎訳/筑摩書房)の中だった。カフカとヤノーホ青年とのつき合いは、カフカの最晩年の四年間ほどだったらしい。カフカの死は一九二四年、ヤノーホは一九〇三年生れであるから、まだ二十歳前後だった。青年の父親はプラハの労働者災害保険局でカフカと同僚だった。それがカフカと青年の関係のはじまりであるが、青年はカフカを徹底的に尊敬している。『カフカとの対話』は、そのカフカを徹底的に尊敬して止まぬヤノーホ青年の回想と手記で、私がこの本を最初に読んだのは、もう二十年くらい昔である。死の間際までカフカに付き添って献身的に看病したドーラ・ディマントは、この本の中でカフカに再会したような気がすると語ったそうである。実際、世界じゅうにゴマンとあるカフカ研究書、カフカ論のどの本よりも、カフカの謎を解く鍵がぎっしり詰った鍵箱みたいな本であるが、その中である日、ヤノーホ青年の口から「作曲家グスタフ・マーラー」の名前が出て来た。
しかし、名前だけで直接マーラーの話題ではない。ヤノーホが通っていた音楽学校の同級生にマーラーの親戚に当る青年がいて、その青年からヤノーホがバルビュスの小説『十字砲火』と『クラルテ』を借りて来た話だった。カフカはやや不機嫌な様子で、バルビュスの二作のタイトルについて短い感想をのべ、マーラーについては何もいわない。カフカはマーラーを知っていたのだろうか? カフカは一八八三年生れ、一九二四年没。マーラーは一八六〇年生れ、一九一一年没。一八九七年、三十七歳でウィーン宮廷歌劇場の指揮者となり、また同じ年、オーストリア=ハンガリー帝国宮廷歌劇場音楽監督に任命され、翌一八九八年にはウィーン・フィルの指揮者に就任している。しかし一九〇七年、反マーラー運動が強まり、ついにウィーン宮廷歌劇場を解雇された。そしてその年のうちにウィーンを去り、パリ経由でニューヨークヘ向った。四十七歳だった。彼が再びヨーロッパに戻ったのは、一九一〇年、五十歳のときである。しかし、夫婦関係が悪化していたらしい。彼はオランダのライデンまでフロイトを訪ねて行った。フロイトはマーラーをパラノイアと診断したが、治療はおこなわなかったらしい、と伝えられている。彼の病気は精神だけではなかった。翌一九一一年、彼は咽喉の治療を受けるためパリへ向ったがうまくゆかず、その年の五月十八日にウィーンで死んだ。
カフカとヤノーホ青年との交渉は、一九二〇年〜二四年あたりだった。したがって、その時期にはすでにマーラーは生存していない。カフカはマーラー作品を聴いていたのだろうか? マーラーについて直接には何も語っていないが、『カフカとの対話』の別のところで、ユダヤ人のことをこんなふうに語っている。
……私たちユダヤ人は本来画家ではない。私たちはものを静止的に描くことができない。私たちはものを流れにおいて、変転として見るのです。私たちは物語の語り手です。
『グスタフ・マーラー/生涯と作品』の「生涯」の部を書いたクルシェネクは、一九〇〇年ウィーン生れの作曲家で、マーラーの次女アンナと結婚したが、のち離婚した。彼は「生涯」の部の最終章「退場」でこう書いている。
マーラーの音楽の根本的な特徴は、凱旋の行列から葬儀のこもった響きまでの全音域にわたる、軍隊行進曲である。マーラーを論じている著者たちは、マーラーが子供時代をイーグラウの兵舎の近くで過ごし、きわだって美しい召集ラッパの吹奏がともなうオーストリア軍兵士の訓練をいつもみていたという事実から、このことをたやすく説明していた。筆者は、このようなきわめて重要な現象が、この原因結果の素朴な相互作用によっては十分に説明されないように思う。芸術家としてのマーラーは、人格化されたエネルギーであり、彼は自分の音楽的使命の力強い性格を意識していた。しかも彼は闘士だったのである。印象的な象徴を用いる彼の性癖のために、彼が何度となく軍隊ラッパとドラムの好戦的なリズムをえらぶことになったのも不思議ではない。