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吉野大夫

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第17回・谷崎潤一郎賞受を受賞した長編小説

『吉野大夫』という題で小説を書いてみようと思う。――かつて信濃追分に実在した遊女・吉野大夫の史実を探し求める主人公の〈わたし〉。吉野大夫をキーワードにして、さまざまな文献、土地、人々を遍歴した結果、彼女の墓や過去帳は見つけ出せたが……。はたして、小説を書き始める際に〈わたし〉がノートに箇条書きにした疑問符は、解決できたのか? 1981年に発表され第17回・谷崎潤一郎賞受を受賞した長編小説。

初出 :一章「文体」九号(昭和五十四年九月)

    二章「文体」十号(昭和五十四年十二月)

    三章「文体」十一号(昭和五十五年三月)

    四章「文学界」(昭和五十五年七月号)

    五章、六章、七章「文体」十二号(昭和五十五年六月)

単行本:一九八一年二月、平凡社刊

底本:中公文庫『吉野大夫』 昭和五十八年十月十日発行

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「吉野大夫」的ダメっぷり(2013年11月16日

「後藤明生コレクション」の第2弾である「吉野大夫」は、軽井沢町・追分宿(おいわけじゅく)を舞台にした小説です。

 むかしむかし、追分が宿場としてにぎわっていたころに実在した、と言われているものの、確かな記録もあるようでなく、いたのかいないのか、結局わからないのに、いたことにはなっている謎の遊女、吉野大夫について、父が調べようと思ったが、どうにも中途半端になってしまう。そしていつものように、あらぬ方向に興味がずれて、本題から離れて、という、題材も内容も、これが学校の宿題ならば先生に叱られてしまいそうな作品です。父のいいかげんな姿勢は作品の中だけのことではなく、実生活でもおんなじような生き方をしていたと思います。

 先日文芸誌「すばる」に発表されたいとうせいこうさんの小説「鼻に挟み撃ち」の中では、こんなふうに書かれています。

 後藤明生は調べればわかる研究書の中の語句の意味について、とうとう『いまはその気もない』と言ってのける。調べる気はない、と。

 この一貫した『1人のまことに不精なシロウト』ぶりに、皆さん、わたしがどれだけ救われたことか。

 今回父の作品を電子書籍化するために読み直していく内に、私も父からこの精神性を受け継いでいたのかも、と思いあたりました。

 すなわち、物事は決着しないこと、調べ物は調べないのが常であること、提案はうやむやになる定めであること、など、我が家では当たり前だった流儀が社会では全く通用しないのだということを、私は社会人になって初めて知ったのだ、ということを思い出したのです。 出す企画には具体性が必要であるとか、決まった事案はやりとげるとか、情報は必ず裏をとるべきであるとか、今思えば当たり前のことなんですが、とても新鮮でした。それができるようになるまでに数年かかったように思います。全てを父のせいにするわけではありませんが、迷惑な話です。

 とはいえ、「吉野大夫」は娘である私にとっては、元気いっぱいに動き回る父の姿を鮮やかによみがえらせてくれる、なつかしくあたたかい作品です。父は闘病の末病院で亡くなりましたし、晩年は入院していない時期もそれほど動作が活発だとは言えませんでした。これまで父の記憶、というとやはり晩年の姿が真っ先に頭に浮かんでいたけれど、「吉野大夫」を読んだことによって、父がまだ若かった頃の記憶が先に出てきてくれるようになったことが、とても嬉しいのです。

 松崎元子

<試し読み>...................................................................

吉野大夫

一章

『吉野大夫』という題で小説を書いてみようと思う。といっても、誰もがよく知っているあの吉野大夫のことではない。京都島原(本当は六条だということらしいが)の名妓吉野のことではなく、同じ江戸期でも、中仙道は追分宿(おいわけじゅく)の遊女だったという吉野大夫のことなのである。しかし、結果はどういうことになるのか、皆目わからない。

 第一にわたしは、いわゆる稗史(はいし)小説なるものの筆法をよく知らない。まるで知らないといった方がよいかも知れない。したがって、おそらくそういう小説にはならないだろうと思う。また、何が何でもそうしなければとも思っていない。なにしろわたしは、この吉野大夫の話が果して小説になるのかどうか、それさえいまはよくわからないのである。

 ないないづくしのついでにいえば、資料らしい資料もない。それらしきものといえば、岩井伝重という人の書いた『食売女』くらいだった。食売女と書いて、メシモリオンナと呼ぶそうである。飯盛女とも書くが、書名は食売女となっている。著者のことは詳しく知らないが、長野県佐久市の人らしい。昭和四十三年十一月十八日印刷、同年十二月一日発行の非売品である。ただし、この本にも吉野大夫のことは一行も出ていない。

 正直いって、そう知ったときはわたしもがっかりした。やれやれ、また振り出しに戻った、と思った。振り出しは、かれこれ五、六年も前になると思う。つまり信濃追分の吉野大夫の名を知ったのがその時分であって、ちょうどわたしは、追分に取材した短篇小説を、ぽつりぽつりと書きはじめたところだった。この連作は、本当にぽつりぽつりのペースで、四年がかりで十篇を書き、二年前に『笑坂』という本になった。

 そういうぽつりぽつりのペースになったのは、一つにはあちこちの雑誌に書いたせいもある。それともう一つは、追分の山小屋で書いたせいもあった。わたしが浅間山麓の追分に出かけるようになったのは八、九年前からであるが、滞在するのは夏の二月ばかりに過ぎない。その間に二篇ずつ書いたとしても十篇書くには五年かかることになるが、実際には一篇しか書かない夏もあった。それが、何とか四年がかりで十篇になったのは、たぶん夏の滞在期間以外に、追分の山小屋へ出かけて書いたのだと思う。現場へ行って書いたのは、素朴ではあるが、藤村の『千曲川のスケッチ』が頭のどこかにあったためと思う。『千曲川のスケッチ』の書き出し方は「地久節には」である。途中にも、この「何々には」「何々では」式の書き方が多い。わたしはそれが好きになった。

「何々には」「何々では」という書き出し方は、重々しいようで軽い。軽いようで重々しい。そういえば『破戒』の書き出しも「蓮華寺では」である。ただ、わたしは『破戒』の方ではない『千曲川のスケッチ』の方の、頻出する「何々には」「何々では」に感染したようになって、たぶん『笑坂』の十篇の中で何度か真似ていることと思う。また、小諸にも何度かバスで出かけて行った。追分からは四十分かそこらで着いた。

 しかし小諸では、別にどこといって見て歩くわけではなかった。確かに旧小諸城祉の懐古園は最初は珍しかった。しだれ桜というものをわたしはそこではじめて見たのである。藤村記念館を出て来ると、そこだけが城の名残りである石垣の上で、どこかの大学の空手部員が空に向って大声をはりあげているところだった。すると下にいた何人かの空手部員が、その声をめがけて石垣をよじ登りはじめた。

 小諸行きは藤村研究のためではないから、土地の研究家の誰それとか、ゆかりの人物を訪ねるわけでもなかった。『千曲川のスケッチ』に出て来る一膳めし屋の揚羽屋(あげはや)に入ったのも偶然である。バス通りに面した何の変哲もない大衆食堂で、最初わたしは冷し中華か何かを食べたのだと思う。店の一隅に畳を四、五枚敷いた場所があり、土地の人らしい親子連れが何か食べていた。そして、わたしの腰をおろした椅子のうしろにガラス戸のついた小さな押入れのようなものがあり、何気なくのぞき込むと、縁無し眼鏡をかけた見おぼえのある藤村の写真が目に入ったのである。

 それでも、最初はまだ、はっきり事情が呑み込めなかった。ガラス戸の内には、写真の他に新聞だか雑誌だかの切抜きのようなものも見えた。記事が赤のマジックで囲ってあったが、内容まではわからなかった。なるほど、さすがは小諸だわい、とわたしは思ったようである。町の小さな大衆食堂にまで藤村の写真が飾ってあるとは! そして、懐古園内の茶店で売っていた「藤村のにごり酒」を思い出した。それは二合瓶詰めの濁酒で、レッテルに「千曲川旅情の歌」が印刷されていた。土産用のタオルにも、三つに割れたのれんにも、白樺作りの壁掛けにも、藤村、藤村、藤村だった。それで、揚羽屋のガラス戸の中も同類だと思ったのである。

『千曲川のスケッチ』の揚羽屋だとわかってからもわたしは何度かその食堂に出かけた。最初のときの冷し中華が口に合ったのだと思う。麵の黄色と鳴戸の桃色ときゅうりの緑が、まるで三原色の見本みたいに見えなかったせいもあった。三原色ふうの甘たるさもなかった。

 藤村の小諸時代、揚羽屋は豆腐屋で、朝早くラッパを吹いて町じゅうを売ってまわったらしい。そして夜は、仕事を終えた行商人や馬方たちを相手に一膳めしと燗酒を売っていたらしい。藤村は何度かふらりと立ち寄っているうちに親しくなり、頼まれて看板の文字を書いてやるようになったそうである。淋しい藤村はふらりと宿を出て揚羽屋に立ち寄り、行商人や馬方たちの声や、立ちのぼる湯気で温められたらしい。冬には熱い茶を飲ませてもらったりしたというが、ときには一膳めしも腹に入れたかも知れない。燗酒はどうだっただろうか。あの顔は酒飲みの顔だろうか。

 揚羽屋には、五十がらみのおかみさんと、その娘らしい女がいた。娘は婚期を少しばかり過ぎた年頃に見えたが、あるいは婿養子を取っているのかも知れないと思った。もちろん、どちらともわからなかったが、嫁に来たのではないように見えた。空いたテーブルで雑誌など読んでいる様子でそう思われた。丸味のない体つきで、美人というのでもないが、どこか垢抜けていた。適当にわがままで、自分から男を選ぶ女ではないかと思った。

 わたしは藤村のことは何もたずねなかった。ガラス戸の中のことも話題にしなかった。結局、何も話さなかったと思う。単なる通りがかりの一人の客で、顔もおぼえられてはいないと思う。ただ、小諸では他の店に行かず、わたしは揚羽屋に行った。夏は冷し中華、それ以前の季節には、そばを注文した。そして、あるときわたしは追分で横山先生に揚羽屋のことを話した。

 横山先生は、いまは定年退職されたが当時は某私立大学の露文科の教授で、夏の追分ではいつも浴衣に下駄ばきだった。それにひどい猫背で、いつも背筋を真直ぐに伸ばしている陸軍幼年学校仕込みの新川先生とは、まったく対照的だった。服装も対照的で、仏文科教授の新川先生は、夏の追分でも、いつもきちんとシャツを着て靴をはき、ステッキをついていたのである。シャツの胸ポケットには小さな刺繍がついており、ぷんといい匂いがすることもあった。二人は追分では、もちろん堀辰雄よりは新参であるが、戦後では最古参の長老格的存在と呼んでさしつかえないと思う。

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