首塚の上のアドバルーン
Amazon Kindleストアにて発売中!
第40回・芸術選奨文部大臣賞を受賞した連作長編小説
千葉の幕張に越してきた〈わたし〉は、マンションの十四階のベランダから、「こんもり繁った丘」を発見する。その丘を訪れ、偶然、見つけたのは、地名の由来となった馬加康胤の首塚だった。そこから話は、新田義貞の首塚、『太平記』、『平家物語』、『瀧口入道』、『徒然草』、『仮名手本忠臣蔵』とアミダクジ式に飛躍し、最後には『雨月物語』へと……。1989年に発表され、第40回・芸術選奨文部大臣賞を受賞した連作長編小説。
◉目次
ピラミッドトーク……………初出「群像」一九八六年九月号
黄色い箱………………………初出「群像」一九八七年新年号
変化する風景…………………初出「群像」一九八七年六月号
『瀧口入道』異聞……………初出「群像」一九八八年六月号
『平家』の首…………………初出「群像」一九八八年九月号
分身……………………………初出「群像」一九八八年十一月号
首塚の上のアドバルーン……初出「群像」一九八九年新年号
単行本:一九八九年二月、講談社刊
底本=単行本:一九九五年一〇月一六日 講談社刊
——————————
『首塚の上』に見えるもの(2013年12月05日)
「首塚の上のアドバルーン」は、千葉市の幕張を舞台にした小説です。1985年の夏、私達家族は千葉県習志野市から同じ県内の千葉市幕張町へ引っ越しました。
新しい家はマンションの11階にあり(小説では14階ということになっています)、最初外の景色に驚いた記憶があります。今でこそ11階なんて高いうちには入らないかもしれませんが、当時はかなり新鮮な眺めでした。
父も同じような気持ちで頻繁にベランダから景色を見るようになり、そして「こんもり繁った丘のようなもの」を発見したのでしょう。「黄色い箱」に出会ったのでしょう。アドバルーンは特に珍しいものではないけれど、それが「首塚の上にある」、という瞬間を見ることができたのは、父しかいなかったかもしれません。と書くと、まるで父は人並みはずれた観察眼を持っていた、という結論になりそうですが、もちろんそうではないでしょう。父が人並みはずれて持っていたのは好奇心であり、更にはその対象が常にずれていたのだと、私は思います。
たとえばカツカレーを注文し、出てきた料理を見て「カツがおいしそうか、大きいか」という点に注目する人が大半だとすると、父は「カレーの皿がまん丸か楕円形か」のほうが気になる、というような感じです。その思考法は父のクリエイティブな生活においてはプラスであり、共に生活をする家族にとってはしばしば迷惑であったということも察していただけるのではないかと思います。
父の好奇心はまた、時に暴走することもあり、強引な解釈をごり押しすることもありました。それを物語る一つのキーワードが「UFO」です。とある夏の日、軽井沢町追分の山小屋にいるとき、遠くから聞きなれない音が聞こえてきました。奇妙な電子音です。父は「あれはUFOの飛ぶ音だ」と言い出しました。小学生だった私は、こんな山の中なら確かにUFOが着陸する場所もありそうだと、怖がりながらも興奮しました。
ところが数日後、同じ音がまた聞こえてきたので父が「ほら、あれ、UFOだろ!」と遊びに来ていた親戚に言うと、「ああ、あれは効果音が出るおもちゃですよ。アメリカのパトカーのサイレン音を真似した奴です」と、あっさり片付けられてしまったのです。現在は無いのでしょうが、当時はバイクのエンジン音やパトカーのサイレン音に似せた音を出すアイデアグッズみたいなものがけっこうあったらしいのですね。今でもアメリカのドラマや映画を見ると、時々ポリスの車があの音をさせながら登場する場面があり、思わず笑いがこみ上げてきます。
そしてまた別のある晩、、「首塚」の舞台である幕張のマンションでの出来事です。リビングから外を眺めていた父が、「おい、あれなんだ」と声を上げました。見るとはるか遠方の空の一点が妙に明るく光っています。「首塚」とは反対側の、海がある方角でした。遠いとはいえその光は強烈で、火事とか工事の照明とかとは違う、というのは確かなようでした。さあ、もうおわかりですね。「あれはUFOの光だ」と、なったわけです。多分父は、その後もずっとそう信じていたはずです。
結局光の正体はわからずじまいでしたから、父の見解が間違っていたとも思いませんが、あっていたとも思いません。ただ、この二つの「事件」の間には約10年の時間が流れているにもかかわらず、父が同じ結論にたどり着いたというのがすごく面白いな、と思いますし、また父が、UFOを、ヘリコプターとか飛行機とかと同じような、「ただちょっと珍しい」乗り物としてとらえていたかも、という疑念もぬぐいがたく、もしかして宇宙人?というのも冗談ではなくなってくるような、こうして私自身も父に引きずられ、日常の中の異界にとらわれていくのでありました。
松崎元子
<試し読み>——————————
首塚の上のアドバルーン
◉ピラミッドトーク
転居祝いにピラミッド形の時計をもらった。高さ五、六センチ、金色のピラミッドで、頂上を指で押すと時間を知らせる。通称「ピラミッドトーク」らしい。
ピラミッド時計を届けてくれたのは、高田氏だった。彼は大手広告代理店社員で、PR誌編集の仕事をしている。私はその雑誌に二年ほど前からコラムを連載していた。ピラミッド時計はPR誌編集部からの転居祝いだった。
「すぐにわかりましたか」
と私は高田氏にたずねた。転居前も、彼はいつも車を運転して来たが、転居後の来訪ははじめてである。
「ええ、そこの湾岸道路はしょっちゅう走ってますから」
と彼は答えた。年は三十二、三に見えた。PR誌は季刊で、コラムの連載がはじまって以来、三ヵ月に一度、彼はきちんと車を運転して来た。原稿を渡したあと、そのまま彼の車に便乗して東京へ出かけたこともある。しかし、それ以上のつき合いはなかった。たぶん彼が酒を飲まないせいであろう。
「前のところと、どうですかね」
「以前のお宅までが、社から約三十五分、今度はそれに約十分プラスですね。でも今度のお宅の方が、車ではずっと便利ですよ。湾岸からでも、旧高速からでも、真直ぐに来て一度カーブすれば到着ですから」
私は冷蔵庫から取り出したトマトジュースの缶とグラスを、サイドテーブルに運んだ。
「あいにくと今日は、みんな留守で申し訳ない」
「どうぞ、まったくお構いなく。それは昨日、お電話でうかがっておりますから」
転居して間もなく、日航ジャンボ機の墜落事故が発生した。新聞もテレビも連日、大々的にその大事故の模様を報道していた。事故の原因は、まだほとんど謎の状態らしかった。高田氏がピラミッドトークを届けてくれたのは、事故から十日目くらいだった。
彼は四角い小箱をあけ、金色のピラミッドトークをサイドテーブルに載せた。そして、ちょっと説明書に目を通してから、ピラミッドの頂上を指で押した。
「三時二十三分です」
と金色のピラミッドは声を出した。
「スポンサーの新製品です」
と高田氏はいった。そしてもう一度ピラミッドの頂点を押した。
「三時二十四分です」
「ははあ、一分刻みですか」
高田氏は左手の指に結婚指輪をはめていた。私がそれに気づいたのは、連載コラムがはじまって半年くらい経ってからである。彼は特に何もいわなかった。あるいはずっと前からそれははめられていたのかも知れないが、私も何もたずねなかった。指輪は細かい模様のあるプラチナのように見えた。
私が煙草に火をつけると、彼も煙草を取り出した。彼は酒は飲まないが、煙草はかなり喫うようである。彼は煙草を右手の指に挟み、指輪をはめた方の手の指で、もう一度ピラミッドの頂上を押した。
「三時二十七分です」
とピラミッドは答えた。
「この声は、女ですかね」
と私も、ピラミッドの頂上を人さし指で押してみた。
「コンピュータで合成した、女性の声でしょうね」
「例の、カイジン二十一面相事件の、電話の声みたいなものかな」
「あれは、子供の声でしたね」
「何だか、あんな感じだなあ」
「あの電話の声は、テープの回転を変えたものでしょう」
私はピラミッドの頂上を押した。
「三時二十八分です」
「ははあ、人工女性の声だな、これは」
日航ジャンボ機墜落事故は、話題に出なかった。私も特別な関心や興味を抱いているわけではなかった。あの便はいつかきっと落ちるであろうとスチュワデスたちが噂していたという噂を、どこかできいたような気がした。週刊誌の広告を見たのかも知れない。しかし、わざわざ買ってその種の緊急特集を読むことはしなかった。ただ、新聞とテレビの報道だけはほとんど見ていた。高田氏が墜落事故にまったく触れないのは、会社のスポンサーだからかも知れなかった。彼はトマトジュースの缶もあけていなかった。
「お宅の会社では、煙草はうるさくないんですかね」
と私はたずねた。PR誌のコラムのテーマ、題材はまったく自由だった。そのことで編集部ともめたことは一度もなかった。日航ジャンボ機墜落事故は、コラムには誂え向きの材料であろう。しかし私は、何が何でもそこに書かなければ、という気はなかった。どうしても書きたくなれば、小説に書いてもよいわけである。しかし高田氏が話題にすれば、コラムに書いても悪くはなかった。
「それは部によって違うようですね」
と彼は答えた。
「机の上に灰皿を置いてはいかん、とか」
「喫煙ルームを設置している会社もありますよ」
「お宅の部は、自由ですか」
「まあ、仕事が仕事ですからね」
「編集長が喫えば、文句はないわけだな」
「ところが彼は、酒専門なんです」
「おや、そうだったかい」
「ぼくと反対なんですよ」
と高田氏は愉快そうに笑った。
「アメリカでは煙草のコマーシャルは禁止なんだそうだね」
と私はたずねた。
「州によっては街頭広告もダメですね」
「それで煙草会社は潰れないのかな」
「向うの場合は、だいたい食糧品とか、その他のメーカーを兼ねてる会社が多いですよね」
「食糧品?」
「缶詰とか、飲料とか」
「なるほど。しかし、それでも煙草を作ってるからには、やはり売れなきゃあ困るだろう」
「去年ちょっと向うへ行きましたでしょう。そのときの話ですがね、街頭で通行者に手渡してましたよ」
「煙草を?」
「ぼくも実はもらったんですが、五本入りの箱だったかな」
「それは違反じゃないのかね」
「あるいは、外国人、旅行者に限っていたのかも知れませんね」
「外国人は大いに喫って下さい、というわけか」
「興味がおありでしたら、調べてみましょうか」
「いや、いや」
「コラムのネタにはなりそうですね。もちろん、小説に使われても構いませんが」
「いやいや。いまそんな計画もないけど、向うでは医師会がうるさいんだろう」
「しかし、法で禁じられていない方法はすべて用いる、これが広告屋の論理ですからね」
と彼はピラミッドの頂上を押した。
「三時四十八分です」
と人工女性の声が答えた。高田氏は、ちらっと腕時計に目をやって、何本目かの煙草に火をつけた。
「しかし、この十四階への転居で、当分コラムのネタには不自由なしですね。湾岸の向うの新国鉄京葉線は来春開通でしょう。まわりには、何といいましたかね、四十何階かのニュータウンが出現するし」
「それがね、まだどこも見ていないんだよ。そこの目の前の放送大学もベランダから眺めるだけでね、とにかくこのハイツから海側へは、ぜんぜん一歩も行っていない」
「まあ、いまは暑いですからね。でも、人工海水浴場だけは是非とも見ておいて欲しいですね」
「人工海水浴場、というと?」
「あれ、知らなかったんですか」
「知らないなあ。とにかく知ってるのは、ここから商店街を通って国鉄駅と、京成の駅と、その往復だけだな」
「そりゃあ、ちょっと、わが誌のコラムニストとしては怠慢というものですなあ。いや、作家として、というべきかも知れませんけど」
「しかし、人工というと、埋め立てた海に、また海水浴場を作ったのかい」
「完全な人工かどうかはわかりませんけど、県営であることは確かですよ」
「県営人工海水浴場、か」
「今度、確実なことを調べておきます。本当は今日、これからすぐにでも車でご一緒したいところなんですけど、今日は五時半から会議がありますので」
私は高田氏を玄関まで送った。そして戻って来てサイドテーブルの上のピラミッドの頂上を指で押した。
「四時一分です」
と人工女性の声が答えた。トマトジュースの缶は私が置いたときのままの状態で、テーブルの上に立っていた。
私はピラミッド時計を寝室に置くことにした。目をさまし、手さぐりで枕元のピラミッドの頂上を押す。人工女性の声は、その日によって実にまちまちだった。
「十時二十二分です」
「四時三十八分です」
「三時六分です」
「十二時十一分です」
「二時二十二分です」
これは私の生活の不規則そのものだった。それがすでに十数年続いていた。転居しても変らなかった。そのことにわれながら、うんざりすることがあった。実際こんな生活がいつまで続くのだろう。私は五十三歳である。そろそろ規則的生活習慣を作るべきではなかろうか。私は何人かの同世代の同業者を思い浮かべた。思い浮かべるのはその日によってまちまちだった。週に二度、きちんとプールに通って水泳をしているものもいた。月に二度、必ずゴルフ場へ出かけるものもいた。朝から夕方まで仕事をして、そのあと酒を飲み、〆切り日の一週間前に編集部に原稿を持参するというものもいた。昼食後、車を運転してスケート場へ出かけ、一時間スケートをしているものもいた。日曜日には双眼鏡を持って競馬場へ出かけるか、行けなくともテレビの中継は必ず見るというものもいた。
これは趣味の有無ではないだろう。趣味の問題ではなく、時間の問題であった。時間の問題であり、習慣の問題であった。しかしピラミッド時計の人工女性の声は、相変らず実にまちまちであった。ただ、いつ頃からか、私はピラミッドの頂上を指で押す前に、人工女性の声を予想するようになった。それが僅かな変化である。
さて彼女の告げる時刻は何時だろうか? 私はピラミッドの頂上を押す前に、ふとんの中で腹這いになって予想した。寝室は仕事部屋の隣で、窓には厚い二重カーテンを引いていた。したがって、部屋の明暗で時刻を予想することは困難である。予想の規準は、まず就寝時刻だった。それに八時間を加える。つまり午前四時就寝ならば、予想は十二時となる。
しかし、彼女の〝お告げ〟と私の予想はなかなか一致しなかった。というよりも、予想はほとんど外れた。テレビの天気予報並みに雨が晴になるような外れ方をすることもあった。また、分単位の微妙なズレであることもあった。原因は幾つか考えられた。例えば就寝前の居眠りである。仕事机で居眠りをして目をさまし、そのままふとんにもぐり込むこともあったし、居眠りからさめて、また暫く読むなり書くなりしてから就寝することもあった。居眠り時間も一定ではないし、思い出せない方が多かった。
もう一つは寝酒のウイスキーの量だろう。しかしウイスキーの量と睡眠時間は必ずしも比例しない。逆の場合もあった。そのためウイスキーの酔いが残ったまま目をさますこともあったのである。これが最も不快なる目ざめであった。
私はピラミッドのお告げをきく前に、両瞼をぱちぱちやることにしていた。最初は軽く四度、次に強く四度。それから両掌を開閉する。各指の腹を掌に強くこすりつけるようにして、四度開閉した。私の目ざめの快、不快度は瞼と掌に最もよくあらわれた。したがってその開閉運動は、人工女性の声を予想する手がかりであった。ピラミッドのお告げを受けるための降神術であり、祈禱でもあったのである。
こうして転居後の約半年が過ぎた。私はその間、高田氏に二度コラムの原稿を渡した。彼はいつもの通り車を運転して取りに来た。一度目のときは、高校の同級生の一人から、やはり高校の同級生の一人の家族(奥さんと子供二人)が日航ジャンボ機墜落事故で全員死亡したことを、電話できいた直後だった。合同葬儀の火葬場の灰が盗まれた記事が新聞に出ていた頃である。しかし日航ジャンボ機墜落事故は話題にならなかった。私も黙っていたし、コラムにも書かなかった。
人工海水浴場も話題にならなかった。すでにシーズン・オフになっていたためかも知れないが、私も黙っていた。なにしろ私は、まだ人工海水浴場を見ていなかったし、他に話題がないわけでもなかった。もちろん「ピラミッドのお告げ」も話題になった。それに彼との対話は、いつも三十分か四十分だった。ながくても一時間を超えることはなかった。